2016年5月10日火曜日

梶原景時墓(2-115、東京都大田区南馬込、萬福寺)

萬福寺の開基、梶原平三景時の墓が境内にあります。墓地の一番高いところに立派な五輪塔。

戒名は萬福寺殿香山不陰大居士、命日は清水狐崎で討たれた日の正治2年(1200)正月20日と記されています。
梶原景時は鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を讒し、また結城朝光を頼家に讒したが、朝光は諸将と連署してその誣告(ぶこく)を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。~「広辞苑」岩波書店より
『吉野静』では、「抑も景時が、その讒言の水上を、思えば渡邊や、流るる水に滿潮の、逆櫓立てんと浮舟の、梶原の申しごと、よも順義にて候はじ。」

『船弁慶』では、「御兄弟の御仲日月の如く御座あるべきを。言い甲斐なきものの讒言により。御仲違われ候こと。返す返すも口惜しき次第にて候。」

というように、英雄視される義経に対して景時は憎まれ役のイメージが定着しているようです。

しかし一方で、歌舞伎の『梶原平三誉石切』や『箙(えびら)』では好感を持てる人物として登場あるいは紹介されています。

その『箙』では、「抑もこの生田の森は、平家十萬餘騎の大手なりしに、源氏の方に梶原平三景時、同じく源太景季、色異なる梅花のありしを、一枝手折り箙にさす」と梶原父子の颯爽とした姿を描いています。
当山開基梶原平三景時公は源頼朝公の重臣。鎌倉幕府の代表的な武将。平家の武将であった景時公は、戦に敗れ伊豆の山中のほこらに隠れていた頼朝公と目が合った一瞬に息が通じ、それまで敵であったその命を救ったのです。その後常に頼朝公の傍らに在り、鎌倉幕府設立に大きな貢献をしました。~萬福寺御由緒書より
以上のように、対照的な記述をされる景時に魅力を感じます。

梶原景時墓
景時の墓の説明板
命日の刻字
五輪塔と戒名を記した石塔