2016年7月29日金曜日

源融の墓(1-109、京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町、清凉寺)

清凉寺の前身である棲霞寺(せいかじ)の寺域は嵯峨天皇の仙洞「嵯峨院」の一部で、嵯峨天皇の皇子である源融(とおる)が山荘として賜った栖霞観(せいかかん)でした。

さらに、清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院でもあります。

僧奝然(ちょうねん)が周から持ち帰った釈迦像を祀るため奝然が歿した後、弟子の盛算が遺志を継いで清凉寺を開きました。

源融は、謡曲『融』の後シテに霊として登場します。

源融の墓と墓標

源融の墓

2016年7月27日水曜日

清涼寺(1-109、京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

正式には五台山清凉寺(ごだいざんせいりょうじ)ですが、嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)と通称されています。

嵐山の渡月橋からの道を北進すると釈迦堂の山門に突き当たります。

広々とした境内の正面に、本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置した本堂(釈迦堂)があります。

本堂の前庭の左手に源融(とおる)の墓があります(別途、記述します)。

この清凉寺を舞台にした謡曲が『百万』(ひゃくまん)です。

大和の国(奈良県)吉野の男が西大寺付近で一人の幼子を拾い、その子を連れて嵯峨の釈迦堂の大念仏にやって来るところから話が始まります。
足に任せて行くほどに 都の西と聞こえつる 嵯峨野の寺に参りつつ 四方の気色(けしき)を眺むれば 花の浮き木のかめやま(亀山)や 雲の流るる大堰川 まことに憂き世のさが(性。嵯峨)なれや 盛り過ぎ行く山桜 嵐の風まつのを(待・松尾) をぐら(小倉・小暗)の里の夕霞~「百万」クセ・新潮日本古典集集成「謡曲集」より
百万という女物狂が、奈良からはるばる旅をして、春の嵯峨にやって来て、大念仏に集っている大勢の人の中に、我が子はいないのだろうかと嘆きます。

吉野の男によって、ついに、百万が我が子に出会えるという結末です。

清凉寺本堂(釈迦堂)

清凉寺の駒札

2016年7月24日日曜日

小督塚(1-104、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)

小督塚(こごうづか)は京都嵐山の渡月橋の近くにあります。

小督局(こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、清盛の女(むすめ)、徳子が中宮であったため、身の危険を感じて、嵯峨野の小督塚のあるあたりに身を隠したと言われています。

小督塚は渡月橋の嵯峨野寄りの堤を少し上流へ進んだところにあります。

この五輪塔は、きれいに整備されていて、傍らに謡曲史跡保存会の駒札が立てられています。

所在地のMap

小督塚

小督塚の駒札

大堰川(桂川)に架かる渡月橋

2016年7月18日月曜日

大膳神社能舞台(6-000、新潟県佐渡市竹田)

大膳神社の能舞台は、数ある佐渡の能舞台のうちでも最古のものと伝えられています。

松の絵に日輪を配した鏡板が特徴で、「佐渡国仲四所の御能場」の一つとして古くから演能が行われている由緒ある能舞台です。県の重要文化財に指定されています。

毎年定例能が行われ、鷺流狂言とともに神事芸能として奉納されています。

普段は静かな佇まいで、簡素ななかにも伝統の重みを感じることができます。

雨戸などもなく、いつでも舞台や鏡板を見ることができます。

大膳神社には、謡曲「壇風」に登場する日野資朝(前シテ、宝生流ではツレ)と大膳坊(ワキ、謡曲中では帥の阿闍梨の名)が合祀されています。
正中の変の折、日野資朝(ひのすけとも)卿は当国(佐渡国)に配流され、一子阿新丸(くまわかまる)は父子対面を求めて遥々都から下向したにも拘らず、遂に許されぬ儘、父刑死の無念を霽らすべく城主本間山城守の館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果した。 
この間、大膳坊賢榮は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の已み難きに感動してこれ を扶け、更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し、無事死中を脱して帰京せしめた。
山城守は激怒し大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。~大膳神社縁起より

大膳神社能舞台

松の絵に日輪を配した鏡板

大膳神社縁起

2016年7月15日金曜日

壇風城址(6-000、新潟県佐渡市竹田)

県道65線沿いに壇風城址があります。

謡曲「壇風」にワキとして登場する本間氏の居城です。

佐渡守護代の本間氏は雑太郷地頭職も兼ねていたので雑太本間氏と呼ばれ、居城は雑太城と呼ばれていました。
日野資朝の歌、「秋たけし壇の梢吹く風に 雑太の里は紅葉しにけり」から後に壇風城の美称がついた。~佐渡市教育委員会解説板より
日野資朝の墓がある妙宣寺も「雑太城跡」となっていますが、こちらは戦国時代の城跡のようです。

壇風城跡の所在地

壇風城跡

壇風城跡

壇風城跡の解説板

雑太城址の解説板(妙宣寺)




2016年7月13日水曜日

阿新丸隠れ松(6-000、新潟県佐渡市阿佛房)

妙宣寺の近くに阿新丸隠れ松(くまわかまるかくれまつ)があります。
日野資朝(すけとも)の子、阿新丸(くまわかまる)が本間三郎を刺して、竹を伝って濠を越え、しばらくこの松に隠れて追っ手を免れたという。~解説板より
阿新丸隠れ松は根元近くを残すのみで、なかなか隠れている姿を想像するのは難しい状況です。

おまけの画像は、佐渡歴史伝説館の中庭にある阿新丸。竹を使って濠を飛び越える姿です。

阿新丸隠れ松の所在地

隠れ松

隠れ松の解説板

 〈おまけ〉 竹を利用して濠を飛び越える阿新丸

 〈おまけ〉 竹を利用して濠を飛び越える阿新丸

2016年7月11日月曜日

日野資朝の墓(6-000、新潟県佐渡市阿佛房、妙宣寺)

能「壇風」に前シテ(宝生流ではツレ)として登場する日野資朝(ひのすけとも)の墓が妙宣寺にあります。

日野資朝は、後醍醐天皇の側近であり、討幕運動の中心人物の一人でした。

正中元年(1324)、倒幕を計画したとして、捕縛されて鎌倉へ護送され(正中の変)、翌年に佐渡へ流されました。

元弘元年(1331)に再び討幕計画が露見した元弘の乱によって、同2年/正慶元年(1332)に佐渡で処刑されました。後醍醐天皇も隠岐に流されました。

謡曲「壇風」の概略は次の通りです。
佐渡島の本間三郎は、元弘の変により流罪に処せられた壬生大納言資朝卿を預かっていたが、昨日鎌倉から飛脚が来て、北条氏の厳命を伝えたので、明日資朝卿を誅することになった。
おりから卿の一子梅若が都今熊野の帥阿闍梨に伴われて、この島に渡り、幸いにも父の生前に対面することができたが、卿はやがて誅せられてしまった。
梅若は本間を父の目前の敵として恨み、阿闍梨の助けをかりて、その夜本望を達し、船着場まで逃げのびて、まさに漕ぎ出ようとする船に便乗を求めたが、船頭は許さない。 
そこで、阿闍梨がその船を祈り戻そうと法力を使うと、三熊野権現が出現して、船を吹き戻し、二人を船に乗せるや、また順風を出して、片時のうちに若狭の浦に送りつけ、無事に都に帰された。~佐成謙太郎「謡曲大観」明治書院より
「壇風」の出典は、太平記巻二「長崎新左衛門尉意見事、附阿新殿事」とのことです。日野資朝の息子の名は太平記では梅若ではなく、阿新丸(くまわかまる)となっています。

単に読むのであれば、謡曲よりも太平記の方が迫力があります。謡曲はいわば台本なので当然でしょうか。

資朝の墓は正面からだと見上げるかたちになり、かつ扉が閉まっているので墓石が見えません。

横にまわって脇から墓石を覗いてみると意外に小さく、かわいらしいものでした。

正面から見た資朝の墓

脇から見た資朝の墓。大きな墓標と小さな墓石

解説板

資朝の歌碑「秋たけし檀の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり」



2016年7月9日土曜日

妙宣寺(6-000、新潟県佐渡市阿佛坊)

妙宣寺は、国分寺や真野御陵など史跡の多い真野地区にあります。

もと順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛(阿仏坊日得上人)の開基と伝えられています。
初め金井新保にあったが、嘉暦元年(1326)雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。 
文永八年(1271)日蓮聖人佐渡配流の時、日得は妻 千日尼と共に深夜ひそかに食物を運びその厄難を救った話は有名である。~解説板より
日蓮宗佐渡三本山の一つで、城址に移転新築後に蓮華王山妙宣寺と名乗りました。

境内にある五重塔は新潟県内唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。

江戸時代に相川の宮大工茂三右ェ門親子が二代にわたり建立したといわれ、日光東照宮の五重塔を模したとされます。

落ち着いて参詣できる趣き深い寺院です。

日野資朝の墓所がありますが、こちらは別途ご紹介します。

山門

本堂

仁王門

五重塔
日得聖人の墓

五重塔解説板




2016年7月7日木曜日

世阿弥腰掛石(6-000、新潟県佐渡市泉甲、正法寺)

鎌倉から室町時代にかけて、承久の乱の順徳上皇や日蓮聖人など多くの人々が政治犯として佐渡に配流されました。

能の大成者である世阿弥も、永享6年(1434)に佐渡に配流されました。
配流は、大夫職継承をめぐって将軍足利義教の怒りに触れたためだとか、南北朝の政争に巻き込まれたものとか、推測が行われているが、真相は不詳。 
佐渡に在島中に著した小謡曲舞集『金島書』によって永享8年(1436)2月に健在だったことが知られ、嘉吉元年(1441)6月に義教暗殺に伴い許されたものと想像されるが、確証はない。また、帰洛したか、どこで亡くなったか、墓所も不明である。~『能楽大辞典』筑摩書房、新版『能・狂言事典』平凡社より
佐渡に流されてから、正法寺などの寺院に移り住んだとされ、 正法寺には世阿弥が腰をかけたと言われる腰掛石があります。

正法寺の寺宝には、世阿弥が雨乞いに使用したとされる神事面(県有形文化財)があります。

正法寺の山門

正法寺本堂の額編
神事面の解説



世阿弥腰掛石









2016年7月5日火曜日

矢島・経島(6-000、新潟県佐渡市小木)

佐渡は、近年ではトキの繁殖で話題にのぼりますが、島内には多くの古くからの神社仏閣や能舞台が点在しています。

矢島・経島は佐渡島の南端近くの小木地区にあります。2つの島とも小さく、特に経島はかわいらしいほどの大きさです。

小木海岸からは遊歩道や橋などを使って手軽に渡ることができ、特に赤い太鼓橋が目立ちます。
経島は、日蓮聖人の赦免状を持って佐渡に渡ろうとした弟子の日朗が漂着し、読経して一夜を明かした所で、頂上には日朗の石像が安置されている。 
矢島は良質の矢竹を産した所で、源頼政が紫宸殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢は、ここの竹製であったと伝えられている。~「佐渡市説明板」より
矢島に竹林は見当たりませんでした。

近くではたらい船の乗船体験ができますが、漕ぐのは非常に苦労し思うようには進みません。

所在地のMap

小木海岸から。手前が経島、奥が矢島


経島(中央左)と矢島

日朗の石像(経島)

矢島全景

経島にある説明板