2016年10月30日日曜日

仙人堂(5-105、山形県最上郡戸沢村古口、外川神社)

仙人堂は、陸羽西線の高屋駅からみて国道47号線(鶴岡街道)および最上川を挟んだ対岸にあります。

青木実『謡蹟めぐり』みちのく編には、「仙人堂は.最上川の対岸の森の中にあるので川を渡らないと近寄れない。望遠鏡で眺めると祠の標識・鳥居・小堂などがみえるが、近くに橋も渡し舟もないので、県道から川を隔てて眺めるだけである」という記述がありますが、現在は有料の渡し舟で仙人堂に参拝することができます。
仙人堂は外川神社ともいわれ、義経の奥州下りの折、従者の常陸房海尊が、この地で義経と別れ、終生この山にこもり、修験道の奥義をきわめた。
仙人堂は『奥の細道』にも、「最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて仙人堂岸に臨みて立つ水みなぎって舟あやうし。」と記し、有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠んでいる。~仙人堂縁起より
渡し舟を降りて階段を上り鳥居をくぐった左手奥の小さなお堂が仙人堂です。

仙人堂の少し上流の岸辺には、弁慶があやしい人影をめがけて石を投げ、その石がめりこんで残ったという「弁慶のつぶ手石」があります。

 所在地のMap

石段の上の鳥居

仙人堂本堂

由緒

仙人堂から望む最上川

弁慶のつぶ手石(左中央の丸い岩)






2016年10月28日金曜日

羽黒山(5-106、山形県鶴岡市羽黒町手向字手向)

出羽三山は月山、羽黒山、湯殿山の総称で、羽黒山の山頂に三山を合祭した出羽三山神社があります。

山頂の駐車場まで自動車道路が整備され、定期バスも通っています。せっかくなので、徒歩で石段(2446段)を2時間かけて登りました。

隋神門から高い杉並木に囲まれた参道を進み、須賀の滝、祓川を越えると、樹齢千年以上の爺杉に出会います。

間もなく国宝の羽黒山五重塔に到着。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)の再建です。深い森のなかに凛々しく立っている五重塔は必見です。

山頂までの1.7kmは、一の坂、二の坂、三の坂と3つの急階段が待っています。三の坂の手前から右手に入って南谷を往復。途中に芭蕉の句碑、「ありがたや 雪をかほらす 南谷」が立っています。芭蕉もこの南谷を訪ねたのでしょう。

胸突き八丁の三の坂を上りきると、赤い大きな鳥居が見えてきます。さらに進むと重要文化財の立派な三神合祭殿が姿を現します。厚さ2.1mもある茅葺で、重厚な構えです。この感動は、自動車で山頂駐車場まで上がってしまっては、なかなか味わえないのではと思います。

頂上の境内は広く、きれいに整備されています。鏡池の手前から見た本殿の全景も素晴らしいです。
古くから山岳修験の山として知られている。開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。皇子はさらに月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となった。以後、羽黒派古修験道として全国に広がったのである。~鶴岡市観光連盟HPより
謡曲「葛城」のワキは、「出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候」と名ノリます。

隋神門前の鳥居

隋神門

由緒

須賀の滝

爺杉

爺杉の解説板
五重塔

五重塔の解説板

芭蕉塚の石碑
芭蕉塚
芭蕉塚の解説板
芭蕉句碑

南谷

南谷

南谷の解説板

南谷の解説板

三の坂の上の鳥居

三神合祭殿

三神合祭殿

扁額

大鐘(重要文化財)

大鐘(重要文化財)

大鐘の解説板

駐車場からの鳥居

案内図



2016年10月26日水曜日

住吉神社(5-104、 山形県山形市上宝沢)

県道272号線沿いの上宝沢にある住吉神社は、炭焼藤太にゆかりがあります。

炭焼藤太の伝説は全国各地にあって、特に宮城の金成・畑村が有名ですが、この山形・宝沢の住吉神社にも同様な伝説があります。
山形市の上宝沢住吉神社にまつわる伝説によれば、平安時代の末期、出羽国宝沢の里に藤太という炭焼が住んでおり、炭を焼いては遠く白岩や寒河江の里まで炭売りに行くのを仕事としていた。 
その頃、京の一条院の豊丸姫が日頃信仰する清水の観音さまから夫となる人は、宝沢の住人藤太であるとのお告げがあり、京から宝沢まではるばる遠い旅路を辿ってきた。 その後二人は夫婦になり、妻のおかげで裏山の金で大金持になった。また、藤太には吉次、吉内、吉六という三人の子どもがいて、長男の吉次は京と奥州とを往復する金商人で、兄頼朝と不和になった義経を平泉の藤原秀衡のもとに案内したという。~山形市観光協会HPより
 境内には、本殿(藤太夫婦の霊)と奥の宮(豊丸姫と3人の子供の像)がある。奥の宮は細く狭い苔むした階段(200余段)を登った上にあります。訪れた日は雨模様で、足を滑らせないか冷や冷やしながらの参拝でした。

所在地のMap

鳥居と本殿

本殿
本殿由来

奥の宮への急な階段

奥の宮

奥之宮由来

説明の駒札



2016年10月24日月曜日

妙見堂(5-103、山形県山形市妙見寺)

国道286号線から南側に入ったところにある養千寺の脇の狭い道を入っていくと熊野神社があります。

その裏手の細く急な階段を登ったところに妙見堂(みょうけんどう)があります。
義経の臣下で四天王の一人といわれた亀井六郎重清が、文治5年(1189)奥州衣川において主従没落の際、妻板垣氏とその幼児源次重基に、亀井家陣中守本尊妙見菩薩および家系図と義経感状を与えて山原村に落ち伸びさせ、妙見菩薩を文殊山山頂に安置したことに始まると伝える。 
文殊山は山頂の地狭く祭祀不便なので、延文元年(1356)に現今の地妙見山に堂宇を建立した。~妙見院縁起より
 ひっそりとした山の頂に立つ小さなお堂ですが、探し尋ねてやっと到着できたので、嬉しさも格別でした。

所在地のMap

鳥居

石碑

階段

妙見堂

扁額

由緒書

2016年10月22日土曜日

阿古耶之松(5-102、山形市平清水、萬松寺)

阿古耶之松(あこやのまつ)のある萬松寺(ばんしょうじ)は、山形県中の南側、千歳山(ちとせやま)の麓にあります。

萬松寺は今から1300年前に阿古耶姫が開基したといわれ、阿古耶の松と阿古耶姫の伝説で有名です。
 阿古耶姫は、信夫群司の中納言藤原豊充(藤原鎌足の曽孫、朝廷の命により陸奥に下って役命に努めた)の娘と伝え、千歳山の古松の精と契を結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので、姫は嘆き悲しみ、仏門に入り、山の頂上に松を植えて弔ったのが、後に阿古耶の松と称されたという。『夫木集』に、「陸奥のあこやの松に木がくれて 出ずべき月の出やらぬかな」と詠まれている。
 阿古耶の松については、『平家物語』の一項にもあり、藤原実方中将が阿古耶の松を尋ねんとする一文がある。~山形市観光協会HPより
なお、2012年に580年ぶりに 復曲になった「阿古屋松」は世阿弥自筆の11曲の一つです。

これは平安時代、陸奥国に赴任した歌人藤原実方が、山中で出会った老人に、歌枕として名高い阿古屋松について尋ねたところ、老人の正体は塩釜明神で、実方に松のめでたさを語り、舞を披露するというもので、前述の伝説を謡ったものではありません

阿古耶之松は萬松寺本堂の右手の細い階段を上っていきます。突き当りが「実方」「阿古耶姫」「中将姫」のそれぞれ廟があります。

そこを左折してしばらくいくと右への登り道があり、さらに進んで左手を少し入ったところに阿古耶之松があります。

この松は二代目だそうで、大事にまわりを柵で囲われています。
参道入り口


由緒書

説明板

山門

本堂

阿古耶之松への階段

左から中将姫之廟、藤原実方之廟、阿古姫之廟

案内板

案内板(壊れて落ちている)

二代目阿古耶之松

阿古耶之松の下部